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Black Musicを中心にEliが聴いた素敵なものを好き勝手に紹介するブログ。 HIPHOP、SOUL、Funk、Jazz、Blues、Rock、Reggae等。
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ロバート・ジョンソン(Robert Leroy Johnson、1911年5月8日 - 1938年8月16日)は、アメリカのミュージシャン。アフリカ系アメリカ人。伝説的なブルース歌手として知られ、同時代の多くのブルースのみならず、その後のロックなどに多大な影響を与えた。

1911年、ジョンソンはミシシッピ州ヘイズルハーストに生まれた。父親はチャールズ・ドッズ・ジュニア、母親ジュリア・ドッズだったが、ジョンソンは実は彼女の浮気相手ノア・ジョンソンとの間に生まれた子供だった。10代の頃に本当の父親の存在を知った彼は、ジョンソン姓を名乗るようになった。1929年、まだ16歳だったヴァージニア・トラヴィスと結婚し彼女は二人の子を身篭るが、翌1930年、ヴァージニアは出産の際に子供とともに亡くなってしまう。

アコースティック・ギター一本でブルースを弾き語りして、アメリカ大陸中を渡り歩いた。当時の聴衆はギターのテクニックが巧みなのに驚き、「十字路で悪魔に魂を売り渡して引き換えにテクニックを身につけた」という伝説が広まった。これが彼について語られる「クロスロード伝説」である。

1936年11月、ジョンソンはテキサス州サンアントニオで初めてのレコーディング・セッションに臨み、3日間で16曲をレコーディングした。1937年6月には二度目のレコーディングのためにダラスに赴き、13曲を残している。彼が生涯に残したレコーディングは、この29曲(42テイク)だけである。

翌1938年にジョンソンは27歳で死去したが、彼の死因については諸説がありはっきりしない。人妻に手を出したため夫によりストリキニーネで毒殺された、情事を夫に目撃されてその場で刺殺されたなどの説が知られるが、ジョンソンの妹は病死だったと語っている。亡くなったミシシッピ州グリーンウッドの役場に提出された彼の死亡届では、彼の死因欄には「No Doctor」とのみ記載されている。上記のクロスロード伝説では、彼を殺したものは悪魔であると語られている。


Robert Johnson- Crossroad

俺はクロスロードに倒れこみ、ひざまずいたんだ
クロスロードに倒れこんでひざまずいたんだ
神様に慈悲を頭上に、「どうか俺を救ってください」って頼んだんだ

俺はクロスロードに倒れこみ、合図して車を止めようとした
クロスロードに倒れこんで、合図して車を止めようとしたんだ
誰も俺を知らなかった、みんなが俺を無視したんだ

そして俺はバラの谷に行ったんだ、俺の横の運転手に連れて行かれて
バラの谷に行ったんだ、俺の横の運転手に連れて行かれたのさ
「お前はまだリバーサイドの安酒場に入れるぜ、ベイビー」

「お前は走れる、走れるんだ」俺の友達のウィリー・ブラウンは話した
「走れ、お前は走れるんだ」俺の友達のウィリー・ブラウンは話した
そして俺はこのクロスロードに立っている、静かになるって信じるんだ
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サラ・ヴォーン (Sarah Vaughan, 1924年3月27日 - 1990年4月3日) は、アメリカ合衆国の黒人女性ジャズボーカリスト。ソプラノからコントラルトまで幅広いレンジに、美しいヴィブラートの掛かった、オペラ歌手にも匹敵する幅広い声域と、豊かな声量を兼ね備え、大胆なフェイクやスキャットを取り入れた歌唱力をも持ち味とした。ジャズ・ボーカル史上ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルドと並ぶ、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の一人と言われている。


Sarah Vaughan  A Lover's Concert

草原に静かに降る雨はなんて穏やかなの
樹の高みから鳥たちが
花々に彼らの美しいセレナーデを歌う

あの丘の向こうに色鮮やかな虹が見える
天からの魔力が今日という日に私たちが恋に落ちるようにした

だから今日から永遠に私はあなたのもの
ただ優しく私を愛してくれれば
私はあなたに全てを捧げる

長い夜を愛のないまま一人にさせて私を泣かせないで欲しい
いつでも私に誠実であって欲しい
愛を永遠にあなたの心にしまっておいて欲しい

いつの日にか私たちは草原のこの場所に戻って来るだろう
私たちは雨の中を歩いて
再び上空の鳥たちの歌声を聞くだろう

あなたは私を両腕で抱きしめて
「愛している」ともう一度言う
もしもあなたの愛が本物ならば
全ては素晴しいものになるだろう
ジェームス・ブラウン(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサー・エンターテイナー。通称JB。
ファンクの帝王と呼ばれ、 The Hardest Working Man in Show Business(ショウビジネス界一番の働き者)と称される。シャウトを用いた歌唱法が特徴である。彼の父はインディアン・アパッチ族で、母はアフリカン・アメリカンとアジア人の系統であり、彼は日系人及び日本人のクオーターである。「祖父の葬儀に出席したときに初めて知ってびっくりした」という。そのとき彼は、「お陰で母は手先が器用だよ」と微笑み、日本人のよい特性を賞賛する発言もしていた。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第10位。

ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、世界恐慌時のサウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも1928年、テネシー州プラスキ生まれという説がある。成人後に、ジェイムズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。

ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結ぶ。バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とのようにクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。

これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していき、上述のPファンクはもちろん、プリンスなどに強い影響を与えた。


James Brown / Get Up(I Feel Like Being A)Sex Machine

起きろ
起きるんだ
この行為を続けるんだ
セックスマシーンのようにな

ちょっと待て
おまえの腕で揺すれ
おまえのやり方を使うんだ
この行為を続けるんだ
セックスマシーンのようにな

おまえは感じているんだろう
おまえがこの世に生まれてきたくらいに確かに
しっかりしろ
よーし、いいぞ

俺を興奮させてくれ
冷や汗をかくくらいにな
俺の好きなやり方が正しいやり方だ
俺には自分のやり方がある
奴のやり方なんか気にするな
おまえの尻を揺さぶるんだ
ニューヨーク/ブルックリン出身。1973年5月23日生まれ。”MAXWELL”とは本来彼のミドルネームで、父親(”Maximillian”)および名付け親(”Max”)の名前からとったもの。カリブ海に浮かぶ西インド諸島出身の母親と、プエルトリコ出身の父親の血筋を引く。3歳のときに父親を飛行機事故で亡くし、そして5歳のときに名付け親(教父)も他界したため、まだ若い母親と祖母の女手ひとつで育てられた。彼の作品の中に脈打ち続ける究極のフェミニズム、そして現在の“マックスウェル”を形作るパーソナリティすべては、この頃の家庭環境に負うところが大きい。父親の死をきっかけに、小さい頃から教会で長い時間を過ごし、独学でピアノを弾くようになったためだ

アルバイトで稼いだお金の大半を楽器や録音機材に費やし、自作曲を自室で録音。自分と音楽だけの小さな世界を築く日々が続いた。酒も煙草もドラッグも、いわゆるティーンエイジャーにとって“誘惑”とされるものには何一つ手を出したことのない彼が、唯一音楽や本、アート以外に興味を持ったのは女の子だった。ガールフレンドとなった”COFFEE SHOP”のウェイトレスの女の子に自作のテープをプレゼントしたことがきっかけで、彼のデモが一部で評判となり、レーベル争奪戦を巻き起こす。こうして、“マックスウェル”という名のアーティストが誕生した。

’96年春、ようやく完成したセルフ・プロデュースのデビュー・アルバム”MAXWELL’S URBAN HANG SUITE”は、マックスウェルが実際に出会ったひとりの女性との夢のような一夜のラヴ・アフェアをめぐる、きわめて私小説的なコンセプト・アルバム。ロマンティシズムとフェミニズムに溢れた内容、ジャズのライヴ・フィーリングと‘80年代初期ソウルのスウィング・ビートを融合させた新しいサウンド・アプローチは、彼との共演を強く望んで参加したというスチュアート・マシューマン(シャーデー)、レオン・ウェア(マーヴィン・ゲイ”I Want You”の共作者)、ワー・ワー・ワトソン(g)ら、素晴らしいゲスト陣のサポートもあって高い評価を博し、じわじわと世界に浸透していく。「’80年代初期には、打ち込みと生楽器の完璧なバランスが保たれていた。それ以降、ヒップホップが台頭してからは、当時のダイナミックさが失われてしまったんだ」 ちょっぴりレトロな感触の、しかし斬新な彼のアプローチは、“ニュー・クラシック・ソウル”あるいは“ソウル・ルネッサンス”などという言葉で評され、ほぼ同時期に登場したディアンジェロ、トニー・リッチ、エリック・ベネイ、エリカ・バドゥらと共にひとつの新しい潮流を形作るようになる。こうして静かにシーンに登場したマックスウェルのデビュー・アルバムは、じわじわと世界中の賞賛を集め、数多くの栄誉と賞を受賞することになる。ローリング・ストーン誌の最優秀R&Bアーティスト部門受賞、グラミー賞最優秀R&Bアルバムノミネート、NAACPイメージ・アワードの最優秀新人賞および最優秀アルバム賞ノミネート、そしてソウル・トレイン・アワードでは最優秀シングル賞(R&B/ソウル男性部門)、最優秀アルバム(R&B/ソウル男性部門)、そして最優秀新人賞(R&B/ソウル部門)の3つの主要部門を独占受賞。発売から約1年をかけ、”MAXWELL’S URBAN HANG SUITE”は全米でプラチナ・アルバムに輝いた。

この曲はRケリーが提供したのだそうです。

Maxwell-Fortunate

月がこんなにも煌々と輝き  
水しぶきがこんなにも心地よいものだなんて、知らなかったよ
身体をつきぬける快感を生まれてはじめて味わったのさ 
こんなにも誰かを愛したことはないよ

君のその熟れた唇の味が忘れられない 
心から誰かを恋しいと思ったのは初めてさ
こんなにも心を揺さぶる歌を初めて聴いたよ
君と巡り合えた僕は幸せものさ 
君が目の前に現れてくれたお陰なんだ 
君と出会ったのが神様の思し召しだってことは 
どこまでも続くこの青空が証明してくれるよ
 
真夜中にオーダーするホテルのルームサービス 
ファーストクラスでの旅行 
固い絆で結ばれた愛、夢心地の気分  
何もかもが生まれて初めての経験さ
こんなにも純白の雪に覆われた冬は記憶にないよ  
後から後から言葉が溢れてきて 
胸の奥が炎のように熱くなるなんて初めてだ
こんなにも魂を込めて熱唱したことは今までなかったのさ

君と巡り合えた僕は幸せものさ 
君が目の前に現れてくれたお陰なんだ 
君と出会ったのが神様の思し召しだってことは 
どこまでも続くこの青空が証明してくれるよ

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トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ (Toots & the Maytals) は、スカ・ロックステディ・レゲエの各時代を築いた3人の音楽グループ。 レゲエの名称は、ザ・メイタルズの曲「DO THE REGGAY」からつけられたと言われている。


Toots & The Maytals - Do The Reggay
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