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Black Musicを中心にEliが聴いた素敵なものを好き勝手に紹介するブログ。 HIPHOP、SOUL、Funk、Jazz、Blues、Rock、Reggae等。
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アル・グリーン(Al Green,1946年4月13日 - )は、アメリカ合衆国アーカンソー州出身の歌手。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第14位。

アル・グリーンがソロ・デビューを果たしたのは、1967年のこと「ホット・ライン」というマイナー・レーベルからのスタートでした。しかし、その会社も一年で活動停止。そんな彼に、メンフィスの新興レーベル、ハイの辣腕プロデューサー、ウィリー・ミッチェルが目を付け、さっそく契約。北部(デトロイト近郊)出身のセンスと力強いヴォーカルを生かし少しずつ注目を集めて行きます。1961年からこのレーベルを育ててきたウィリー・ミッチェルは、アル・グリーンの歌唱力を認めつつも、あえてソフトにセクシーに歌うよう彼に奨め、それが彼独特のセクシーなファルセット・ヴォイスを生むことになりました。

折から1970年代初め、ハイ・サウンドは、いよいよ完成の域に達しようとしていました。
 ハイ・リズムと呼ばれるリズム・セクションは、ホッジス3兄弟によるピアノ・キーボードとギター、ベース、それにハワード・グライムスのドラムスからなり、ゆったりとしながらも、切れのある独自のリズムを生みだしていました。さらに、そこにメンフィス・ストリングスの優雅な演出がなされ、パワフルなコーラスが華やかさを添える。すべての条件は整っていました。そして、ついにハイ・レコードは、記念碑的な大ヒットを飛ばします。それが、アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」(1971年)でした。ここから、ハイ・レコードの黄金時代が始まり、彼以外にもアン・ピープルズ、シル・ジョンソン、オーティス・クレイ、そして大御所O.V.ライトなどの活躍が続き、モータウンやスタックスの勢いが失われつつあった70年代は、ハイ・サウンドとフィーリー・サウンドがソウルの新興勢力として大活躍をする時代となりました。


Al Green - Let's stay together

君をとても愛している
君のしたいことはなんでもするよ
君がまっさらな気持ちにさせてくれたから
人生をともに歩んでいきたいんだ

聞いて、一緒になった時以来、
永遠に君を愛することは僕が必要としていることだって気がついたんだ
だから君が駆け寄ってくる時は僕も一緒にいるよ
決して嘘はつかないよ

共に生きよう
いい時も悪い時も、幸福な時も悲しい時も
どんな時でも君を愛してる

なぜ人は別れ、裏切り、嘘をつくのか
僕にはぜんぜんわからないよ
君を取り巻く物すべてが僕の見るすべてなんだよ
そういう二人でいたいってことさ

共に生きよう
いい時も悪い時も、幸福な時も悲しい時も
どんな時でも君を愛してる

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若い世代に、黒人文化の音楽的記憶を呼び覚ましたニュー・クラシック・ソウル・ムーヴメント。その中核を担ったのが、ディアンジェロ、マックスウェル、そしてトニー・リッチである。リッチはシンガー/コンポーザー/プロデューサー/アレンジャー/プレイヤー、全てを1人でこなすマルチ・ミュージシャンだ。また彼のサウンドは、他の2人のソウル路線と異なり、アコースティック・ギターを多用してフォーキーな香りを醸しだしている。


Tony Rich - Nobody Knows

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ピート・ロック(本名 ピーター・フィリップス 英語:Peter Phillips, 1970年6月21日-)は、アメリカ、ブロンクス出身のヒップホップ DJ、プロデューサー、ラッパーである。1990年代初頭に、ピート・ロック&CLスムースの1人として、頭角をあらわしてきた。コンビ解消後も、彼は活躍を続け、大衆向けの活動とは言えないにせよ、世界的な名声を博している。彼は、ヒップホップがジャズの要素を取り入れていく際、ステッツァソニック、ア・トライブ・コールド・クエスト、ギャング・スターなどと共に、大きな役割を果たした。ヒップホップの歴史の中で、最も偉大なるプロデュ-サーに数えられる共に、DJプレミアやRZAと共に、1990年代の東海岸ヒップホップを支えてきた人物として言及されることも多い。彼はヘビーDのいとこでもある。ピート・ロックは、特にそのジャズ色の濃いトラックが日本でも人気が高く、ヒップホップ最高のプロデューサーとしてピート・ロックの名を挙げる人も多い。


Pete Rock & C. L. Smooth "They Reminisce Over You"

1990年Trouble T Royが事故死によって帰らぬ人に。 享年22歳。1992年に親友でもあったPete Rock & CL Smoothがトリビュートソングとして「They Reminisce Over You (T.R.O.Y.)」を発表。サックスの音の元ネタはTom Scott 「Today」

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1950年代から歌手として活躍し、ジャマイカン・ミュージックの発展に多大なる貢献を果たした人物、デリック・モーガン(Derrick Morgan)。スカ誕生以前のサウンド・システム創世記より活躍し、ポークパイ・ハットがトレードマークのクールな出で立ちと、リズミカルなヴォーカル・スタイルを武器にデューク・リード(Duke Reid)、プリンス・バスター(Prince Buster)、レスリー・コング(Leslie Kong)、バニー・リー(Bunny Lee)といったプロデューサーの元重要なヒット作をリリースした。

スカ誕生以前、ジャマイカにおけるリズム・アンド・ブルースの歌手達はタレント・コンテストやショーへの出演で腕を磨いた。1956年、当時15歳だったデリック・モーガン(Derrick Norgan)は、オーウェン・グレイ(Owen Gray)、ジャッキー・エドワーズ(Jackie Edwards)、エリック・モリス(Eric Morris)、ホーテンス・エリス(Hortense Ellis)といった名だたる面子を破ってコンテストに優勝。この夜モーガン少年はアメリカの黒人ロックン・ロール歌手、リトル・リチャード(Little Richard)の真似をステージで披露、拍手喝采を浴びたと言う。この優勝をきっかけに彼はジャマイカ中をツアーして回り、徐々にその知名度を上げていった。

1959年にデューク・リード(Duke Reid)のオーディションに合格した彼はデビュー曲である'Lover Boy'をリリース。軽快なブギーのリズムをアレンジしたこの楽曲はサウンド・システムで大きな人気を獲得した。その後スミス(Smith's)レーベルからのリズム・アンド・ブルース、'Fat Man'が特大ヒット、続けてリリースされたゴスペル調の楽曲、ハイ・ライト(Hi Lite)レーベルからの'I Pray For You'もヒットとなり、彼は確実に聴衆の心を掴んでいった。

こうして大きな人気を獲得したデリック・モーガン(Derrick Morgan)は、プリンス・バスター(Prince Buster)と行動を共にするようになる。ここでプリンス・バスター(Prince Buster)のヒット曲、'They Got To Go'を共に製作し、自身も'Shake A Leg'、'I Want A Girl'、'In My Heart'、'Miss Lulu'、'Let Me Hold Your Hand'、'Soldier Man'といった数枚のシングルをリリースした。

そして次に彼が拠点として選んだのが中国系ジャマイカ人、レスリー・コング(Leslie Kong)のビバリーズ(Beverleys)であった。ここでもジャマイカの独立を祝うレコード、'Forward March'、プリンス・バスター(Prince Buster)が彼とコングを攻撃した'Blackhead Chinaman'に対するカウンター・パンチ、'Blazing Fire'、パッツィ(Patsy)とのデュエットで'House Wife Choice'等を始めヒットを連発、レーベルも快進撃を続ける。デリック・モーガン(Derric Morgan)は歌手としてだけでなくレーベルの運営にも大きな権限を持っており、オーディションの審査やレコード・リリースの決定も彼の判断によって行われていた。当時、メイタルズ(Maytals)のトゥーツ・ヒバート(Toots Hibbert)がデリックによってオーディションに落とされたという逸話も残っている。スカの時代が過ぎロックステディ期を迎えてもデズモンド・デッカー(Desmond Dekker)と共にビバリーズ(Beverleys)を支え、ルード・ボーイ・スタイルのレコードでその人気は衰える事はなかった。

またデリック・モーガン(Derrick Morgan)はイギリスのスキンヘッズの間でも高い評価を得ていた。自身のプロデュースによる1969年の'Moon Hop'は彼の存在を幅広くアピールする事に役立ち、今までに無い幅広いファンを獲得するに至った。イギリス拠点で活動するデリックのバック・バンドのピラミッズは、モーガンが作曲した曲を'Skinhead Moonstomp'というタイトルで録音し直している。

1970年代は主にバニー・リー(Bunny Lee)や自身のプロデュースで作品をリリースし、精力的な活動を行った。現在に至るまで様々なレーベルから編集盤がリリースされ、それらの作品からは変わらない人気の高さを伺い知る事が出来る。


moon hop
リトル・リチャード(Little Richard、1932年12月5日 - )は、アメリカ合衆国の歌手。ロックの創始者の一人。本名:リチャード・ウェイン・ペニマン(Richard Wayne Penniman)。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第12位。

ジョージア州メイコンのアフリカ系アメリカ人の家庭に生まれる。同性愛者であるため、実の父親に疎んじられて白人の家庭へ養子に出される。皿洗いの仕事をしながら歌い続け、1951年から1954年にかけて、友人ジョニー・オーティスの推薦でピーコック・レコーズから数枚のシングルを出したがほとんど売れなかった。粘り強くデモテープをレコード会社に送り続け、1955年、スペシャルティ・レコーズからデビュー。「トゥッティ・フルッティ」("Tutti Frutti")、「のっぽのサリー」("Long Tall Sally")、「ジェニ・ジェニ」("Jenny, Jenny")、「グッド・ゴリー・ミス・モリー」("Good Golly, Miss Molly")といったヒットを飛ばす。エネルギッシュな歌唱法で、草創期のロックに決定的な影響を与えた。激しいアクションでピアノを弾く姿も話題となった。また、映画『女はそれを我慢できない』(1956年)に主題歌を提供する一方、自らも出演した。

1957年、人気の絶頂期に突如引退を発表し、アラバマ州のオークウッド大学に入学して神学を修め牧師となった。しばらくはロックを罪深い悪魔の音楽として遠ざけゴスペルを歌っていたが、1962年にロック歌手として復帰。この復帰コンサートの前座を務めたのが、無名時代のビートルズである。また、この時期のサポート・ギタリストの一人に、ジミ・ヘンドリックスがいた。

1986年に、ロックの殿堂入りを果たす。『フルハウス』などテレビドラマへの出演も多い。1990年、リヴィング・カラーの楽曲「エルヴィスは死んだ」にゲスト参加。


Little Richard - Good Golly Miss Molly

おやまあモーリー
ホント、踊りたくなってくるぜ
おいおい、すげえぜ、モーリー
そうさ、楽しくやりてえぜ
おまえがロックンロールで踊り出すと
ママが呼ぶ声もおまえの耳には入らない

朝も早い早いうちから、夜の早い早いときまで
あんたら、あの青い明かりを灯した館で
モーリー嬢が体を揺すっているのを拝めるぜ
おいおい、すげえぜ、モーリー
ホント、やりたくなってくるぜ
おまえってやつは、女将の呼ぶ声も耳に入らなくなっちまう

まあな、さっき、おれは
親父とオフクロに言われたぜ
「おまえ、自分の行いには気をつけたほうがいいぜ」って
あいつらにモーリーのことがわかるなら、
なんでおれのオヤジはあんななんだよ

おいおい、すげえぜ、モーリー
ホント、はめを外してみたいもの
ROCKで踊っていると
おまえってやつはママの呼ぶ声も耳に入らなくなるもんな

おれは街に行くんだ、ダイヤの指輪を買うのさ
19カラットのゴールドのやつでも、おまえは許してくれるよな?

すげえぜ、モーリー
ホント、やりてえよ
おまえは女将が呼ぶ声も耳に入らないもんな
すげえぜ、モーリー
踊りたくなってくるぜ

おいおい、すげえな、ミス・モーリー
ホント、やりたくなってくる
おまえがロックンロールしてると
女将の呼ぶ声もおまえの耳には入らない
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eliblack
年齢:
42
性別:
女性
誕生日:
1982/04/26
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