REGGAE Eli's Blog 忍者ブログ
Black Musicを中心にEliが聴いた素敵なものを好き勝手に紹介するブログ。 HIPHOP、SOUL、Funk、Jazz、Blues、Rock、Reggae等。
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ガーネット・シルク(Garnett SilkまたはGarnet Silk、1966年4月2日 - 1994年12月10日)はレゲエ・ミュージシャン、ラスタファリアン。本名ガーネット・ダミオン・スミス(Garnet Damion Smith)、ジャマイカのマンチェスター教区出身。
「ガーネット・シルク」の名付け親はスティーリー・ジョンソン。12歳の時、リトル・ビムボの名でディージェイとしての活動を開始、様々なサウンド・システムで修行を積む。初のレコーディングは1987年の「Problem Every Where」。その後活動拠点をキングストンへと移し、シンガーへと転向する。1990年頃から頭角を現し、影響を受けた多くのアーティストがラスタ的な歌を書くようになる。「Hello Africa」「Splashing Dashing」などをヒットさせ、性と暴力を主なテーマとしていた当時のダンスホール・レゲエにラスタ回帰の気運を取り戻したが、1994年にオーチョ・リオスの自宅の火事により永眠。
彼の死については不慮のガス爆発説や麻薬取引に関わったための報復説、暗殺説などの様々な噂があるが、真相は分かっていない。


Garnet Silk - Hello Mama Africa ( Live 1994 )


母なるアフリカよ
ただいま、ママ!

ママ、こんにちは
お元気ですか?
俺は元気でやってます。
ママも元気だといいですね。
ママ、こんにちは
お元気ですか?
俺の言葉で元気になってくれれば
うれしいです。

俺がママのことを心配してるんだよって事を
伝えたくてさ。
決して放したりしないから安心してください。
海を隔てて離れてるけど、ママと俺はいつも一緒だから。

日に日にママとの思い出が心に蘇る。
ずっとあなたの事を考えて日々過ごしてるんだ。

ママ、こんにちは。お元気ですか?
俺は元気でやってます。
ママも元気だといいですね。
ママ、こんにちは。お元気ですか?
俺の言葉で元気になってくれれば
うれしいです。
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アルトン・エリス(Alton Nehemiah Ellis、1938年9月1日 – 2008年10月10日)はジャマイカ出身の歌手、ソングライター、音楽プロデューサー、レーベル経営者。
ジャマイカで発祥したポピュラー音楽ジャンル、ロックステディを確立した音楽家の一人であることからゴッドファーザー・オブ・ロックステディと、またジャマイカにおけるリズムアンドブルース (R&B) 及びソウルミュージックの第一人者であることとその歌唱法からミスター・ソウル・オブ・ジャマイカという異名を持つ]。
1994年にはジャマイカ名誉勲章 (en:Order of Distinction) を受賞。2006年にはインターナショナル・レゲエ・アンド・ワールドミュージック・アワード殿堂 (the International Reggae And World Music Awards Hall Of Fame) 入り。


Alton Ellis - I'm Still In Love With You Girl
キング・タビー(King Tubby、本名オズボーン・ラドック(Osbourne Ruddock)、1941年1月28日 - 1989年2月6日)は、ジャマイカのサウンド・エンジニア、音楽プロデューサー。ダブ(Dub)を発明し、その普及に努めたジャマイカ音楽史上最も重要な人物の一人であるキング・タビーは幼少の頃に電気に興味を持ち始めた。その後、電化製品の修理を行う傍ら、サウンド・システム用のアンプの製作を試み、自身のサウンド・システム'Home Town Hi-Fi'を68年に始動させた。同時期にトレジャー・アイル(Treasure Isle)でレコードのカッティングをする仕事に就いていた彼はある日、同所で録音されたロック・ステディの名曲からヴォーカルを抜いたバージョンに新たな可能性を見出し、バージョンのダブ・プレートを自身のサウンド・システムでプレイしたところ好評を得た。更にU-ロイ(U Roy)が今日のDJの起源とも言えるスタイルを編み出したのもタビーの功績によるものである。

72年には地元ウォーター・ハウスに自身のスタジオを設立し、それまでプレイしていたヴァージョンをエフェクトや音の抜き差しを加えたダブへと進化させた彼は、同スタジオでバニー・リー(Bunny Lee)、リー・ペリー(Lee Perry)、オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)、ロイ・カズンズ(Roy Cousins)、カールトン・パターソン(Carlton Patterson)、ウィンストン・ライリー(Winston Riley)、ヤビー・ユー(Yabby U)といったプロデューサー達の制作した曲のミックスを多数手掛けた。73年に発表した最初のダブ・アルバムと言われる'Blackboard Jungle Dub'や'Dub From The Roots'、そしてダブ・アルバムの金字塔'King Tubbys Meets Rockers Uptown'といった作品に代表される100枚以上のアルバムにタビーの名はクレジットされている。

後にキングに名を改めたプリンス・ジャミー(Prince Jammy)、フィリップ・スマート(Phillip Smart)、サイエンティスト(Scientist)といった優秀なエンジニア達も活躍し、隆盛を極めたタビーズ・スタジオだったが、80年代に入るとその勢いは減退し、タビーはエンジニア業を休業する時期さえあった。しかし、同じウォーター・ハウスで独立していた弟子のジャミーがスレンテン(Sleng Teng)革命を起こした85年からファイヤーハウス(Firehouse)を筆頭に複数のレーベルを設立、アンソニー・レッドローズ(Anthony Red Rose)の'Tempo'の大ヒットから始まったタビーの復活劇は彼が殺害される89年まで続いた。
キング・タビーは、機材なども自分の手作り特製で、当時のジャマイカの3分の2の機材は、タビーが作った物だと言われていた。


King Tubby & Soul Syndicate - Leaving Babylon Dub
1950年代から歌手として活躍し、ジャマイカン・ミュージックの発展に多大なる貢献を果たした人物、デリック・モーガン(Derrick Morgan)。スカ誕生以前のサウンド・システム創世記より活躍し、ポークパイ・ハットがトレードマークのクールな出で立ちと、リズミカルなヴォーカル・スタイルを武器にデューク・リード(Duke Reid)、プリンス・バスター(Prince Buster)、レスリー・コング(Leslie Kong)、バニー・リー(Bunny Lee)といったプロデューサーの元重要なヒット作をリリースした。

スカ誕生以前、ジャマイカにおけるリズム・アンド・ブルースの歌手達はタレント・コンテストやショーへの出演で腕を磨いた。1956年、当時15歳だったデリック・モーガン(Derrick Norgan)は、オーウェン・グレイ(Owen Gray)、ジャッキー・エドワーズ(Jackie Edwards)、エリック・モリス(Eric Morris)、ホーテンス・エリス(Hortense Ellis)といった名だたる面子を破ってコンテストに優勝。この夜モーガン少年はアメリカの黒人ロックン・ロール歌手、リトル・リチャード(Little Richard)の真似をステージで披露、拍手喝采を浴びたと言う。この優勝をきっかけに彼はジャマイカ中をツアーして回り、徐々にその知名度を上げていった。

1959年にデューク・リード(Duke Reid)のオーディションに合格した彼はデビュー曲である'Lover Boy'をリリース。軽快なブギーのリズムをアレンジしたこの楽曲はサウンド・システムで大きな人気を獲得した。その後スミス(Smith's)レーベルからのリズム・アンド・ブルース、'Fat Man'が特大ヒット、続けてリリースされたゴスペル調の楽曲、ハイ・ライト(Hi Lite)レーベルからの'I Pray For You'もヒットとなり、彼は確実に聴衆の心を掴んでいった。

こうして大きな人気を獲得したデリック・モーガン(Derrick Morgan)は、プリンス・バスター(Prince Buster)と行動を共にするようになる。ここでプリンス・バスター(Prince Buster)のヒット曲、'They Got To Go'を共に製作し、自身も'Shake A Leg'、'I Want A Girl'、'In My Heart'、'Miss Lulu'、'Let Me Hold Your Hand'、'Soldier Man'といった数枚のシングルをリリースした。

そして次に彼が拠点として選んだのが中国系ジャマイカ人、レスリー・コング(Leslie Kong)のビバリーズ(Beverleys)であった。ここでもジャマイカの独立を祝うレコード、'Forward March'、プリンス・バスター(Prince Buster)が彼とコングを攻撃した'Blackhead Chinaman'に対するカウンター・パンチ、'Blazing Fire'、パッツィ(Patsy)とのデュエットで'House Wife Choice'等を始めヒットを連発、レーベルも快進撃を続ける。デリック・モーガン(Derric Morgan)は歌手としてだけでなくレーベルの運営にも大きな権限を持っており、オーディションの審査やレコード・リリースの決定も彼の判断によって行われていた。当時、メイタルズ(Maytals)のトゥーツ・ヒバート(Toots Hibbert)がデリックによってオーディションに落とされたという逸話も残っている。スカの時代が過ぎロックステディ期を迎えてもデズモンド・デッカー(Desmond Dekker)と共にビバリーズ(Beverleys)を支え、ルード・ボーイ・スタイルのレコードでその人気は衰える事はなかった。

またデリック・モーガン(Derrick Morgan)はイギリスのスキンヘッズの間でも高い評価を得ていた。自身のプロデュースによる1969年の'Moon Hop'は彼の存在を幅広くアピールする事に役立ち、今までに無い幅広いファンを獲得するに至った。イギリス拠点で活動するデリックのバック・バンドのピラミッズは、モーガンが作曲した曲を'Skinhead Moonstomp'というタイトルで録音し直している。

1970年代は主にバニー・リー(Bunny Lee)や自身のプロデュースで作品をリリースし、精力的な活動を行った。現在に至るまで様々なレーベルから編集盤がリリースされ、それらの作品からは変わらない人気の高さを伺い知る事が出来る。


moon hop
トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ (Toots & the Maytals) は、スカ・ロックステディ・レゲエの各時代を築いた3人の音楽グループ。 レゲエの名称は、ザ・メイタルズの曲「DO THE REGGAY」からつけられたと言われている。


Toots & The Maytals - Do The Reggay
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eliblack
年齢:
42
性別:
女性
誕生日:
1982/04/26
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BLACK MUSICが大好物。JazzyHiphop、SOUL、FUNK、Blues,Jazz。
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